東海道ルートの歴史(4) 近代

近代東海道 道路史
近代東海道

はじめに

古代から現代までの東海道(道路)の歴史について、6回に分けて解説します。

日本書紀に登場する「四道」から現代の「新東名高速道路」まで、東海道は常に日本を代表する幹線道路であり続けています。

第4回は、近代です。

日本全国に国道網が敷かれ、国道に初めて番号が付けられた明治18年(1885年)には、44路線の国道がありました。

明治国道1号、2号

明治5年(1972年)に東海道宿駅伝馬制度が廃止されました。

明治9年(1876年)、明治政府は「道路ノ等級ヲ廢シ國道縣道里道ヲ定ム」によって、道路を「国道」、「県道」、「里道」の三種類に分け、さらにそれぞれを「一等」、「二等」、「三等」の等級に分けました。

道路ノ等級ヲ廢シ國道縣道里道ヲ定ム(出典:wikisource)

國道一等 東京ヨリ各開港場ニ達スルモノ
  二等 東京ヨリ伊勢ノ宗廟及各府各鎭臺ニ達スルモノ
  三等 東京ヨリ各縣廳ニ達スルモノ及各府各鎭臺ヲ拘聯スルモノ

縣道一等 各縣ヲ接續シ及各鎭臺ヨリ各分營ニ達スルモノ
  二等 各府縣本廳ヨリ其支廳ニ達スルモノ
  三等 著名ノ區ヨリ都府ニ達シ或ハ其區ニ往還スヘキ便宜ノ海港等ニ達スルモノ

里道一等 彼此ノ數區ヲ貫通シ或ハ甲區ヨリ乙區ニ達スルモノ
  二等 用水堤防牧畜坑山製造所等ノタメ該區人民ノ協議ニ依テ、別段ニ設クルモノ
  三等 神社佛閣及田畑耕耘ノ爲ニ設クルモノ

東海道は、江戸~大坂の東海道五十七次を引き継ぎ、東京日本橋~大阪港の一等国道とされました。
ただし、熱田~桑名が七里の渡しから陸路に変更になり、また、大津~伏見~淀のルートが大津~京都~淀(伏見は通らず)に変更になっています。
この頃はまだ国道に番号はなかったので、引き続き公文書でも「東海道」と呼称していました。

その後、明治18年(1885年)に「國道表」が定められ、初めて国道に番号が付けられました。
このとき国道の等級は廃止され、従来の國道一等が1号~8号、國道二等が9号、國道三等が10号~44号となりました。

国道1号:日本橋~品川~川崎~神奈川~横浜(港)
国道2号:日本橋~品川~川崎~神奈川~保土ヶ谷~戸塚・・・大坂(港)

東海道は、日本橋~大阪(港)の「国道2号」となりました。
ただし、日本橋~品川~川崎~神奈川は国道1号でもありました(神奈川で1号と2号が分岐)。
その頃から「国道1号(壹號國道)」「国道2号(弐號國道)」という表記が使われ出しますが、まだ公文書で「東海道」という表記も多く使われていました(明治以降のルート変更でできた新しい道も「東海道」と呼んでいました)。

また、日本橋~横浜の国道1号については「京浜国道(京濱國道)」という呼称も登場しました。

以上の「道路ノ等級ヲ廢シ國道縣道里道ヲ定ム」に基づく国道(明治9年~明治18年)と「國道表」に基づく国道(明治18年~大正9年)を合わせて通称「明治国道」と呼びます。

大正国道1号、2号

大正9年(1920年)の道路法(旧道路法)施行によって、国道路線が一新され、国道番号も新しくなりました。
この旧道路法の時代(大正9年~昭和27年)の国道を通称「大正国道」と呼びます。

国道1号:日本橋~三重県日永(追分)~(伊勢)神宮
国道2号:日本橋~三重県日永(追分)~大阪~鹿児島

国道2号の一部(日本橋~大阪)が東海道に相当します(日本橋~三重県日永(追分)は国道1号でもありました)。

公文書では「国道1号(壹號國道)」「国道2号(弐號國道)」と表記されることが多くなりましたが、一般的には東海道の区間に関しては「東海道」という表記もよく使われていました。

東京~横浜間では、昭和元年(1926年)頃までに、京浜国道の改築が行われ、品川、大森、川崎、鶴見の各所に新しいルートが完成し、大正国道1号も新ルートへと経路変更されました。

さらに昭和24年(1949年)頃には、第二京浜国道が完成して、大正国道36号となりました。
従来の京浜国道は、第一京浜国道と呼ばれるようになりました。

東海道ルートの歴史(5) 現代 に続く

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