東海道ルートの歴史(2) 中世

中世東海道 道路史
中世東海道

はじめに

古代から現代までの東海道ルートの歴史について、6回に分けて解説します。

日本書紀に登場する「四道」から現代の「新東名高速道路」まで、東海道は常に日本を代表する幹線道路であり続けています。

第2回は、中世です。

中世は、京都と鎌倉という二極を中心とした道路網が構築された時代です。

鎌倉街道の東海道(京鎌倉往還)

鎌倉幕府が開かれると、鎌倉を中心とした放射状の鎌倉街道が発達しました。

その中でも鎌倉(幕府)と京(都)を結ぶ街道(京鎌倉往還)が日本の最重要の幹線道路であり、これを中世の東海道と考えるのが一般的です。

室町時代になっても、鎌倉には鎌倉府が置かれて引き続き関東の政治の中心地であったので、京鎌倉往還が日本の最重要の幹線道路であったことには変わりありません。

古代や近世の東海道は尾張国から伊勢国を経て近江国へ向かいますが、中世の京鎌倉往還は尾張国から美濃国を経て近江国へ向かうのがメインルートです。

戦国時代になると、中世東海道沿線では、今川氏(駿府)、北条氏(小田原)、織田氏(清州、岐阜、安土)、徳川氏(岡崎、浜松、駿府、江戸)などの有力大名がしのぎを削りました。

関ヶ原の戦いが美濃国で行われたのも、当時の東西を結ぶメインルートが美濃経由であったことが理由の一つと考えられます。

東海道ルートの歴史(3) 近世 に続く

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