はじめに
古代から現代までの東海道ルートの歴史について、6回に分けて解説します。
日本書紀に登場する「四道」から現代の「新東名高速道路」まで、東海道は常に日本を代表する幹線道路であり続けています。
第1回は、古代です。
都(飛鳥、奈良、京都など)から各地方へ向かう放射状の幹線道路のうち、東へ海沿いに向かう道が東海道でした。
四道(日本書紀)の東海道ルート
日本書紀には、第10代崇神天皇が、北陸、東海、西道、丹波の四道にそれぞれ将軍を派遣し、各地方を平定したという内容が載っています。
北陸道(くぬがのみち):大彦命(おおびこのみこと)
東海道(うみつみち):武渟川別命(たけぬなかわわけのみこと)
西道(にしのみち):吉備津彦命(きびつひこのみこと)
丹波道(たんばのみち):丹波道主命(たんばのみちぬしのみこと)
西道は、のちの山陽道に相当し、丹波道はのちの山陰道の一部に相当します。
崇神天皇は、実在した可能性のある最初の天皇といわれており、3世紀後半から4世紀前半の天皇であるという説が有力です。
「道」には道路の意味と地方区分の意味があり、「四道」とは「4つの地方区分」であることは間違いないと思います。
それでも、四道将軍が軍勢を率いて進軍したのですからそれなりの道路があったはずで、四道将軍が通ったルートが「道路としての北陸道や東海道」の起源といえると思います。
日本書紀の四道将軍の話がどの程度史実に沿っているのかははっきりしませんし、具体的なルートもよくわかっていません。
それでも、「日本書紀に四道のひとつとして東海道が載っている」のは確かであり、それだけでも東海道の歴史的価値の高さを感じることができます。
七道駅路の東海道ルート
律令制により、五畿七道という地方区分が定められました。
五畿:大和国、山城国、摂津国、河内国、和泉国
七道:東海道、東山道、北陸道、山陰道、山陽道、南海道、西海道
七道にはそれぞれ幹線道路(駅路)が定められ、駅制が敷かれました。
七道駅路は規模によって、3つのランクに分かれました。
大路:山陽道
中路:東海道、東山道
小路:北陸道、山陰道、南海道、西海道
東海道は、都(遷都によって変わる)からいくつかの国府を経由して常陸国府へ向かうルートが本線でした。
また、本線から離れた国府へ向かうために途中で分岐する支線がいくつかありました。
さらに、常陸国府から先は、東山道へ合流するための接続路がありました。
中央集権国家が大きな力を持っていた律令制の七道駅路は、都と国府をできるだけ直線的に結ぶためのルートであり、広く立派な道路であったことが発掘調査によってわかっています。
しかし、その後、地方の力が強まり、相対的に中央集権国家の力が弱まると、都と国府を直線的に結ぶ駅路よりも、地方同士をきめ細かく結ぶルートの重要性が増してきました。
また、立派な駅路を維持することも困難となり、駅路はだんだん廃れていきました。
東海道ルートの歴史(2) 中世 に続く
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